死と安楽の間で

〜安楽死、尊厳死について考えるブログ〜

安楽死をめぐる脳内葛藤その2〜安楽死を望む両親に、なんと言えばいいのか〜

A 前回の話は、安楽死に対する一般的な議論を紹介したけれど、そもそも安楽死を一般化して語ることは、どれほど有用なのだろうか

 

B たしかに、死というのは自分以外の誰かが代わりに引き受けてくれるものではないから、あくまで個別的で特殊的なものだ。では、私の両親が近い将来、安楽死を望んでいることに対して、どのように振る舞えばいいのだろうか。

 

A いっそ、両親の安楽死を肯定すれば良いのではないだろうか。

 

B だけれど、それは老後の面倒を見たくない、と間接的に、いや直接的に言ってしまうことになるのではないだろうか。

 

A もしそれが、老後の世話の拒否を伝えることになるとしても、両親が面倒をかけたくないと言っているのだからいいのではないか。むしろ、両親の安楽死を拒否するのは、老後の面倒を見たくない、と自分が言いたくないだけではないか。

 

B これは、痛いところを突かれてしまった。たしかに、安楽死を止めるというのは、親に対する気持ちといいうより、自己防衛的な動機に基づくものかもしれない。だけれど、そうした偽善の中に、わずかでも、両親に安楽死して欲しくないという純粋な気持ちがあると思う。そして、両親の安楽死を肯定する態度は、両親の気持ちを理由に、自分のそうした純粋な気持ちを押し殺しているのではないか。

 

A 両親が安楽死をするか、しないか、決める以上、優先されるべきは両親の気持ちなのではないか。

 

B もちろん、そうした側面はあるだろう。でも、自分の気持ちを伝えないことが両親の気持ちに寄り添うということなのか。

 

A 少し話を横道にずらすと、自分と両親の気持ちや状態だけで、両親の安楽死を考えることはできないのではないか。介護をするのは決して自分だけではない。自分の家庭に苦労をかけることもあるかもしれない。

 

B 長生きしてほしい息子に、その奥さんが安楽死をひそかに望むという話は、実際に起こりうるかもね。ただ、こうした問題が自分だけの問題ではないというのは、一方ではとてもやっかいだが、他方で相談できる相手がいるということでもあるんじゃないのかな。

安楽死をめぐる脳内葛藤 その1 〜福祉国家における権利の困難〜

A それにしても、年末の安楽死の映像は衝撃的だったね。

B うん。ああいうのが一般的になるのか、どうかはわからないが、多くの人が実は安楽死を肯定してたり、世界的にも制度化されているというのが、驚きだよ。

A 君は数日、ディグニタスとか、安楽死について勉強してたらしいけど、なにかこれからの安楽死を考える上で重要なヒントは見つかったかい?

B 安楽死について、世界中でどのように制度化されているのかは、色々知ることができたよ。だけれど、安楽死にどういう立場があって、どのような論争があるのかは、まだ見えてこないんだ。
A きっと、それはあまりにも専門的なことだからだろう。ネットで調べただけでは出てこないよ。ただ議論と言っても、安楽死を倫理的な見地から否定する、いわゆる保守的立場と、人権を尊重する、いわゆるリベラル派の対立があるという、典型的なパターンなのではないだろうか?

B いや、そんなに単純ではない。もちろん、ざっくりと言えばそうした対立があるが、リベラル派の中にも、安楽死に反対する立場がある。それは、安楽死を推進する背景には、国家の医療負担を減らしたいという”お上の論理“と、子に迷惑をかけたくないという“下からの倫理”の結びつきがある。こうした、なんとなくの流れの中で安楽死を認めてしまうと、医療に必要なものを皆んなで負担し合うというコンセンサスが失われてしまうのではないかと懸念する意見もあるんだ。

A なるほど、まるで福祉国家におけるリベラルの困難が、安楽死の議論に凝縮されているかのようだね。だとしても、日本の多くの人が安楽死に肯定的である以上、僕は遠くない将来、安楽死を制度化せざるを得ないと思うね。

B では、もし安楽死が制度化されたとき、相互扶助のコンセンサスはどうなるだろうか。やや、飛躍的に話せば、そうしたコンセンサスの欠如が、ゆくゆくは年金制度や保険制度をより自己責任的な改悪につながるのではないだろうか。

A たしかに、君が懸念していることはわかる。しかし、そうした福祉国家の倫理を破綻させないために、安楽死を制限するという議論は、患者の尊厳のある死に対する権利を守りつつ、連帯の倫理を保ち続けるという、ある種の理想主義かもしれないが、そうした選択肢を排除しているように思える。終末期に避けられない苦痛と恐怖がある以上、患者に死の権利を認めないという立場はもはや成立しないのではないか。

B もちろん、患者の権利は大事だろう。しかし、日本尊厳死協会が安楽死ではなく、リビングウィルという延命治療の拒否という比較的穏やかな制度を支持している裏には、安楽死を支持すると、優生思想を根拠に障がい者を排除したナチズムを彷彿させるとして非難された歴史がある。これを踏まえずして、権利、権利と言うのは生命に対するラディカリズムというより、むしろ新自由主義的な精神の現状追認に過ぎないと思うな。

なぜ日本は安楽死の法制化が進まないのか 〜権利という視点からの考察〜

前回のブログでは、日本尊厳死協会におけるリビング・ウィルについて紹介した。日本尊厳死協会はこのリビング・ウィルについて、安楽死ではなく、回復の見込みのない場合に限った生命維持の拒否であることを強調している。

 

海外における法制化された安楽死も、患者が好き勝手に死ぬことができるというわけではない。しかし、海外の事例において、最も尊重されるべきは患者の権利であり、主体的な意思決定であった。こうした患者の権利という側面から考えると、リビング・ウィルという制度は、死を意思に基づき決定する、という契機を避けているように思える。

 

患者が意思に基づき死ぬための薬を飲むわけでも、医師が死ぬための薬を処方するわけでもない。こうした主体的な意思決定を避けることは、死に対する責任を誰も負いたくない、ということでもあるのではないか。

 

橘玲氏の記事によれば、7割が安楽死に賛成しているという。(https://www.minnanokaigo.com/news/kaigogaku/no211/)しかし、未だに安楽死は制度化されていない。法律というものは人間がつくるものである以上、自らの意思と選択がなければ永遠に制度化されない。

 

以上のように、日本の安楽死が制度化されない背景を二重の意味で “権利を行使しようとする態度のなさ” という観点から説明できるだろう。まず患者の権利を尊重しようと発想がなければ、そもそも安楽死自体が成り立たないこと、そして立法化するためには、人々が選挙権や結社する権利、知る権利、表現する権利を使わなければならないという点である。

日本の尊厳死協会とは〜リヴィング・ウィルについて〜

ブログを始めてから前回まで、もっぱら海外における尊厳死について調べてきた。それでは、日本において、尊厳死安楽死はどのように考えられているのだろうか。

 

インターネットで検索すると、まず最初に日本尊厳死協会のホームページが出てくる。このホームページのトップページで説明されている通り、この日本尊厳死協会は安楽死には反対の立場をとっている。(安楽死とは医師による積極的な行為によって患者を死なせること)

それに対して、日本尊厳死協会が支持しているのはリビング・ウィル(LW)という自死における決定のあり方である。以下、日本尊厳死協会のLWの定義である。
http://www.songenshi-kyokai.com/living_will.html

 

“回復の見込みがなく、すぐにでも命の灯が消え去ろうとしているときでも、現代の医療は、あなたを生かし続けることが可能です。人工呼吸器をつけて体内に酸素を送り込み、胃に穴をあける胃ろうを装着して栄養を摂取させます。ひとたびこれらの延命措置を始めたら、はずすことは容易ではありません。生命維持装置をはずせば死に至ることが明らかですから、医師がはずしたがらないのです。
「あらゆる手段を使って生きたい」と思っている多くの方々の意思も、尊重されるべきことです。一方、チューブや機械につながれて、なお辛い闘病を強いられ、「回復の見込みがないのなら、安らかにその時を迎えたい」と思っている方々も多数いらっしゃいます。「平穏死」「自然死」を望む方々が、自分の意思を元気なうちに記しておく。それがリビングウイル(LW)です。”

 

この日本尊厳死協会の会員数は10万人を超えている。さらに、リビングウィルというのが、不治かつ末期の場合のみという条件があるのにも関わらず、なぜ法制化が進んでいないのか、次回のブログでそれを考えたい。

台湾の“患者自主権利法”とは何か

ディグニタスのホームページには、いろんな国の尊厳死にたいする法律の情報があって勉強になる。今回紹介したいのは台湾である。このホームページによれば、2015年の12月18日に”患者自主権利法“がタイで制定され、たとえ不治の病気でなくても、5体満足者でも延命治療を拒否できる、とある。そして、重要なのは、こうした法律が通ったのはアジアで初めてのことであるということだ。

 

近年、台湾はリベラルなイメージがある。最近、話題になったことで言うと、LGBTのパートナーを認めたり、原発廃止などが挙げられる。これに延命治療の拒否もすでに許可されていたとなると、このブログの趣旨を外れて、むしろ最近の台湾はなぜリベラルなのか、という研究をしたいくらいである。

 

それはさておき、この ”患者自主権利法ー Patient Autonomy Act“ がどのような法律なのか。国立国会図書館調査及び立法考査局の論文によれば、まず現在の台湾では、患者に対して、十分な説明をすることなく治療をすることが可能であるということを背景に、患者に対する権利の保護という観点からこの法律が定められたということである。

http://www.dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_9851748_po_02660210.pdf

itemId=info:ndljp/pid/9851748&contentNo=1&alternativeNo=&__lang=ja

 

では、実際の法律は延命治療の拒否についてどのように書かれているのだろうか。以下、患者自主権利法の14条の英訳である。

“患者が次の状態にあり、Advance Decision (尊厳死の決定)を下した場合、医師および医療機関は人口栄養、水分補給、延命治療を中止してよい。

・患者が末期状態にある場合

・患者が元に戻らない昏睡状態にある場合

・患者が半永久的な植物状態にある場合

・患者が深刻な認知症で苦しんでいる場合

・患者が治る見込みのない病気により、苦しみを耐えることができなり、その時点において他に選択できる可能なオプションがもはやない場合、そしてそうした状態にあることが中央当局によって申告された場合

 もし患者がAdvance Decision を下した場合でも、医師および医療機関は彼らの専門的判断によってその実行を拒否することができる。その場合は、患者および関係者に説明をしなければならない。

 医療機関または医師は、本条の規定に従って、生命維持療法および/または人工栄養および水分補給を終了、撤回、または保留した場合、刑事責任または行政責任を問われるものではない。

患者の事前決定に違反する故意または重大な過失行為がない限り、医療機関または医師は損害賠償責任を負わない。”

 

この法律は患者自主権利法という名前であるが、上記の患者の状態においては患者の意思によって尊厳死を選択するのは難しそうだなと感じた。もちろん理念としては患者の権利というのを強調することは大事だというのは前提だが、この14条の最後の方の文言において、尊厳死を選択した場合は自己責任であるということを明記している。もちろん、これは当たり前であるが、他方で、医師の専門的な判断で尊厳死の実行を拒否することができるともしている、これは素朴に言えば、患者自主権利の考えとは反するだろう。

 

尊厳死の決定において、主体、医師、責任ということが重大な論点であることは、この条文からうかがい知ることができる。

では、こうした患者の権利に対して日本はどのようにアプローチしているのだろうか、それを次のブログで紹介したい。

 

安楽死、尊厳死における「予見可能性」とは何か

前回の記事で、カナダの議会が成立させた尊厳死の法律では、死が予見可能な場合のみ、という条件づけられたものだった。(つまり、余命宣告などがなければ尊厳死はできないということ)

 

さて、この予見可能性という点だが、これが多分に論争の余地がある。最も重要な点は医師の判断によって尊厳死が可能かどうかが変わってしまうことだろう。余命宣告されてもそれ以上の年数を生きることのできている人もたくさんいるし、医師によって判断が別れる場合もある。これは、患者が医師の判断に左右されるだけでなく、1人の医師によって尊厳死の可、不可が決まってしまうため責任も重大になってしまうということもある。もちろん、こうした問題は制度論的に、セカンドオピニオンを義務付けるなどして、ある程度回避できるかもしれない。

 

しかし、この問題の本質は、治る見通しが立たなく耐えられない苦痛があるが死が合理的に予見できない患者、に対して尊厳死を制限する点であろう。そういった患者はむしろ死が合理的に予見できないからこそ、耐えられない苦痛がいつまで続くかわからないという状態から自らの尊厳を守るために自死を選択することを望むからだ。

 

この問題は私たちに、死が人間にとってどういうものなのか、という問いを投げかけているのかもしれない。人間にとって死は不可避的でありながら、根本的に予見することはできない。運良く100歳まで生きていけるのかもしれないし、明日交通事故で死ぬかもしれない。その一方で、統計学的なデータによれば人間の平均寿命をデータとして提示することもできるし、さらなる医療の発達によって死に対する予測が今よりも正確になるのかもしれない。高度な予測可能な時代において、予測可能性、予測不可能性とはなんだろうか。

 

さらに、自死を選択するという行為は、人間に内在する可能性を抹殺するということでもある。たとえ、どんなに正確に予測が可能だとしても、治癒可能性自体を完全に否定することはできない。そうした生きることの変更可能性とそれに対する死の不可逆性が、死刑を認めない欧州の倫理的基盤でもある。こうした人間における生と死の非対称性が人間を人間たらしめてきた歴史を考慮するならば、尊厳死自体の倫理性を問う前に、尊厳死安楽死が一般化される世紀において、「倫理」や「人間」の定義自体が大きく変容していることを重く受け止めなくてはならない。

 

 

カナダにおける尊厳死の法律を巡る状況について

前回のブログでカナダが安楽死をめぐって司法と立法が対立していることを紹介した。しかし、少し事情を調べてみると、ディグニタスのホームページの説明だけでは不十分であることがわかった。以下、自分がインターネットのニュースやウィキペディアを見た限りの整理である。

まず、1992年に、ALSを患い余命2年と宣告されたスー・ロドリゲス氏が、尊厳死を認めてもらうべく訴えを起こした。しかし、その起訴は退けられた。ロドリゲス氏は2年後にロドリゲス氏は匿名の医師に処方してもらい、自死した。(ちなみにこの医師は起訴を免れた)

2015年に最高裁の決定により、スー氏の訴えに対する判決を覆した。そして、それを法律で定めるのに時間がかかるので、12ヶ月、そして、さらに4ヶ月の猶予を政府に与えた。

しかし、カナダ政府の定めた法律(Bill-C 14)では、「死が合理的に予見可能な場合のみ」という、条件付きの法律であったため裁判所の判決と矛盾することとなった。最高裁判所の決定が、尊厳死を本当に望む人々、カナダに住む人々のコンセンサスだと考えるのであれば、政府が法律で決めた条件は、本当に尊厳死を求めてる人にも制限してしまうことになる。

以上が、カンダでの安楽死尊厳死を巡る状況である。ここで重要なのは「予見可能性」が最大の争点になっている点であろう。次回は、この予見可能性をめぐって私自身が考察したことを、書いてみたい。