死と安楽の間で

〜安楽死、尊厳死について考えるブログ〜

死と安楽の間で

 年末だろうか、ビートたけしテレビタックルという番組で、安楽死のテーマを取り扱っているのを観た。衝撃だったのは、ある外国人の女性が安楽死の薬を飲む映像が流れていたことだった。

 

  友人であろう付添人の「あなたは死にたいの?」という問いに足して、「ええ、私は死にたいわ」と答える女性。その後、彼女は死ぬための薬を飲み、数分で眠気のために目を閉じ、亡くなった。付添人の友人は涙ながらに、彼女がまぶたを閉じた後もしばらく祈りを捧げていた。

 

  さらに驚いたのは、この番組を観ていた両親が自分たちも安楽死をしたい、と言ったことだった。家族の迷惑になるくらいなら早く死にたい、そう両親は言った。

 

 私はこのとき、なんと言っていいのかわからなかった。自分が面倒を見るから長生きしてね、そう言えば良かったかもしれない。ただ僕はその時、なんていいのか分からず、黙ってしまった。「介護」という重い二文字が頭をよぎったからだ。

 

 その日以来、私はずっと安楽死あるいは、そう遠くない将来、安楽死の自由化が進むであろう社会をどう考えたらいいのか考えている。今後、本当に両親は安楽死を選択するかもしれない、両親が安楽死することに自分も準備しなくてはいけなくなるのかもしれない。安楽死という選択肢が私たちの “生きている時間” に影響を与える以上、安楽死に対する葛藤や苦悩を避けることはもはやできないだろう。

 

 素直に言えば、両親がもしできるのであれば安楽死したい、と言ったとき最も ”安心“ したのは私かもしれない。一方で、私を育ててくれた両親に対してそう思ってしまったことが許せない。このアンビバレントな思いとどのように向き合っていけばいいのか。

このブログは死と安楽の間にあるそうした葛藤の過程であり、ひいては私自身の死に向けてのささやかな準備作業である。