死と安楽の間で

〜安楽死、尊厳死について考えるブログ〜

なぜ日本は安楽死の法制化が進まないのか 〜権利という視点からの考察〜

前回のブログでは、日本尊厳死協会におけるリビング・ウィルについて紹介した。日本尊厳死協会はこのリビング・ウィルについて、安楽死ではなく、回復の見込みのない場合に限った生命維持の拒否であることを強調している。

 

海外における法制化された安楽死も、患者が好き勝手に死ぬことができるというわけではない。しかし、海外の事例において、最も尊重されるべきは患者の権利であり、主体的な意思決定であった。こうした患者の権利という側面から考えると、リビング・ウィルという制度は、死を意思に基づき決定する、という契機を避けているように思える。

 

患者が意思に基づき死ぬための薬を飲むわけでも、医師が死ぬための薬を処方するわけでもない。こうした主体的な意思決定を避けることは、死に対する責任を誰も負いたくない、ということでもあるのではないか。

 

橘玲氏の記事によれば、7割が安楽死に賛成しているという。(https://www.minnanokaigo.com/news/kaigogaku/no211/)しかし、未だに安楽死は制度化されていない。法律というものは人間がつくるものである以上、自らの意思と選択がなければ永遠に制度化されない。

 

以上のように、日本の安楽死が制度化されない背景を二重の意味で “権利を行使しようとする態度のなさ” という観点から説明できるだろう。まず患者の権利を尊重しようと発想がなければ、そもそも安楽死自体が成り立たないこと、そして立法化するためには、人々が選挙権や結社する権利、知る権利、表現する権利を使わなければならないという点である。