死と安楽の間で

〜安楽死、尊厳死について考えるブログ〜

安楽死、尊厳死における「予見可能性」とは何か

前回の記事で、カナダの議会が成立させた尊厳死の法律では、死が予見可能な場合のみ、という条件づけられたものだった。(つまり、余命宣告などがなければ尊厳死はできないということ)

 

さて、この予見可能性という点だが、これが多分に論争の余地がある。最も重要な点は医師の判断によって尊厳死が可能かどうかが変わってしまうことだろう。余命宣告されてもそれ以上の年数を生きることのできている人もたくさんいるし、医師によって判断が別れる場合もある。これは、患者が医師の判断に左右されるだけでなく、1人の医師によって尊厳死の可、不可が決まってしまうため責任も重大になってしまうということもある。もちろん、こうした問題は制度論的に、セカンドオピニオンを義務付けるなどして、ある程度回避できるかもしれない。

 

しかし、この問題の本質は、治る見通しが立たなく耐えられない苦痛があるが死が合理的に予見できない患者、に対して尊厳死を制限する点であろう。そういった患者はむしろ死が合理的に予見できないからこそ、耐えられない苦痛がいつまで続くかわからないという状態から自らの尊厳を守るために自死を選択することを望むからだ。

 

この問題は私たちに、死が人間にとってどういうものなのか、という問いを投げかけているのかもしれない。人間にとって死は不可避的でありながら、根本的に予見することはできない。運良く100歳まで生きていけるのかもしれないし、明日交通事故で死ぬかもしれない。その一方で、統計学的なデータによれば人間の平均寿命をデータとして提示することもできるし、さらなる医療の発達によって死に対する予測が今よりも正確になるのかもしれない。高度な予測可能な時代において、予測可能性、予測不可能性とはなんだろうか。

 

さらに、自死を選択するという行為は、人間に内在する可能性を抹殺するということでもある。たとえ、どんなに正確に予測が可能だとしても、治癒可能性自体を完全に否定することはできない。そうした生きることの変更可能性とそれに対する死の不可逆性が、死刑を認めない欧州の倫理的基盤でもある。こうした人間における生と死の非対称性が人間を人間たらしめてきた歴史を考慮するならば、尊厳死自体の倫理性を問う前に、尊厳死安楽死が一般化される世紀において、「倫理」や「人間」の定義自体が大きく変容していることを重く受け止めなくてはならない。