死と安楽の間で

〜安楽死、尊厳死について考えるブログ〜

カナダは自殺幇助を巡って揺れている?

前回に引き続き、安楽死に対する各国の状況を紹介したい。前回では、スイス、オランダ、ベルギー、台湾などが自殺幇助を合法としているが、もちろん、どんな国であれ、それは暫定的なものでしかありえない。ディグニタスのホームページの各国状況をしっかりと読むと、自殺幇助の法律に対する葛藤があることがわかる。

例えば、ワシントンDCは州では、市長の権限で自殺幇助の権限を医師に与えるも、特別区は州ではないため連邦政府の承認が必要だということで、この自殺幇助の条例を破棄されそうになっていることが書かれてある。

さらに、興味深いのはカナダの例である。以下がカナダの項目に書かれてある英訳である。
http://www.dignitas.ch/index.php?option=com_content&view=article&id=54&Itemid=88&lang=en

“カナダ
2015年2月6日、9対0の全会一致で、カナダの最高裁判所は医師による自殺幇助を禁止する刑法を廃止した。この法律は12ヶ月間の猶予の下で施行された。

2016年6月17日に、刑法改正と他の法律(死に際しての医療援助)に関する法案であるBill C-14は、下院と上院で合意した。この法律で、医師による自殺幇助を許さないことを決めた。
この新法は、自然的な死亡が予見可能な場合のみ自殺幇助を認めているものであり、慢性的な状態であるが、余命が言い渡されていない患者に対しては自殺幇助のアクセスを制限している。
なので、この Bill C-14は、最高裁判所の判決と矛盾しているため、裁判所で訴訟を起こすことになる。”

裁判所での判決と議会で決めた法律が対立することは、制度上ありうるが、それが前傾化することはそれほど多くない。(違憲判決などが、立法と司法の対立の一例だろうか)
しかし、こうした摩擦が起きているということは、カナダ社会において自殺幇助の見解が割れていることなのではないだろうか。

Bill C-14 とは何なのか、このページには詳細なデータも置かれてあるので、次回はこのカナダにおける自殺幇助に対する法をめぐって何が争われているのかを調べたい。

スイスにおける、安楽死と自殺幇助の法律について

ディグニタスのホームページは勉強にもなって面白い。
いくつかの国において、自死はどのように法律で決められているのかを紹介しているページがあった。

ベルギーやオランダは2002年、2015年には台湾など、様々な国が自死を選択する法律が認められたとのことを改めて見ると、1942年から自死の選択とサポートを犯罪とはしていなかったスイスは特異的である。

しかし、ディグニタスのホームページにあるスイス刑法の文言をよく読んで見ると、解釈的に認められたものであるかのような論理構成をとっている。以下、英訳である。

1942年1月1日に発効したスイスの刑法は、selbstsüchtig な動機から自殺幇助を罰する、とあります。 selbstsüchtig とは、スイスドイツ語、 "利己主義、身勝手"というように翻訳され、明らかに卑劣な、自我主義的な動機を取ることを明確にするために "selbstsüchtig"という言葉を使っています。
一例を挙げるのであれば、故意にその人に財政的支援を払う必要がなくなるために自殺する人を扇動すること、また早期に死ぬようほのめかすこと、そのような嫌がらせの動機が与えられなければ、犯罪としないということです。スイスでは、自発的または非自発的な両方の安楽死が禁止されています。”

まず注意しなければならないのは、最後の文言にある、スイスでは安楽死を禁止しています、というものである。あれ? スイスは安楽死していいんじゃないの?と思うかもしれない。スイスでは医師が安楽死の薬を投与する“安楽死”、と医師が薬を処方し、患者自らの決断で自死する“自殺幇助”は、はっきりと区別されてある。前者は禁止されており、後者は合法である。

さらに、興味深いことは、先述した論理構成の点であり、「他人の自殺をほのめかされて自死を選択する場合は違法」という法律を、「自らの熟慮で選んだ場合は合法」と解釈的に根拠づけていることだ。

はたして1942年に安楽死の議論があり現在ような法律になったのか、または、60年前に作った法律が超高齢社会、医療社会の現在に合わせて再解釈されたものなのか、これに関してはおそらく、より詳細な調査、研究が必要だろう。このディグニタスのホームページは色々なデータが掲載されているので引き続き勉強してみたい。

ディグニタスが安楽死の対象としているのはどんな人?

前回のブログでは、どのような手続きでディグニタスの会員になることができるのかを紹介した。では、会員になれば誰でも安楽死をサポートしてもらえるのだろうか。

 

 ディグニタスのパンフレットによれば、医師が不治の病で、耐え難い苦痛や障害を避けることができない場合、資格あるスッタフの協議のもと安楽死のサポートが援助できるとのこと。そして、それはスイス法に抵触しないということが記されてある。

 

それでは、精神的な問題で安楽死を望む場合は認められるのか、以下、FAQの欄の英訳である。

http://www.dignitas.ch/index.php?option=com_content&view=article&id=69&Itemid=136&lang=en

 

“Q 私は精神的な問題で苦しんでいます。ディグニタスは私のために自死を手助けしてくれますか?

 A それは非常に難しいです。その決定が精神不安の症状ではなく精神的バランスの取れた決定であることを証明するために、明確な診断が必要ですが、たとえそのような複雑な手続きを得たとしても、許可できる保証はありません。

 

と書かれてある。精神的な自死は現状では ”できない“ と考えるべきだろう。

 

ディグニタスはそもそもどんな組織か

前回のブログで紹介した、スイスにある安楽死のカウンセリングや援助を行なっているディグニタスという団体だが、

インターネットで検索しても、どういった人を安楽死の対象にしているのか、末期患者のみなのか、希望すれば安楽死できるのか、そもそもこの団体の運営は適切に行われているのか、いまいち見えてこない。

そこで前回に引き続き、ホームページの一部を英訳したい。

以下、ディグニタス会員についてのページの英訳である。

 

 

 “原則として、すべての成人はスイスに居住していなくても、外国市民権を持っていても、DIGNITASの普通の会員になることができます。しかし、DIGNITASはスイス国外のメンバーにサポートすることはできません。
DIGNITASのサービスの安全を確保したいメンバーは、法律的に有効な患者の指示を受ける権利、生涯の終わりに付随すること、付随する自殺への支援を受ける権利があります。さらに、協会がそれを提供できる限り、人生と死の人間の尊厳に関するすべてにおいて、カウンセリングを受ける権利があります。 DIGNITASは、メンバーに人類が大きな価値を持っているコンタクトを提供することを非常に重要視しています。 DIGNITASは「尊厳を持って生きる - 尊厳で死ぬ」という言葉をモットーにしています。
DIGNITASに加入するには、メンバーシップ宣言を記入してDIGNITASに送付するだけです。 DIGNITASは会員の承認を書面で確認した後、より詳細な書面を送ります。この手紙で、新会員は詳細な支払い指示書を受け取り、必要項目を記入し、オリジナルをDIGNITASに返します。 DIGNITASは項目事項を登録し、十分なコピーをメンバーに提供します。これで、DIGNITASのメンバーになる手続きが完了します。”

 

 なるほど、ディグニタスのサポートを受けるためには、スイス国内でなければ支援を受けることができないというのが、一番の障害であるが、手続きは簡単そうだ。さらにオンラインで手続きを進める項目もあり、金銭の支払いも特別な事情があれば考慮するとも書いている。

 

それでは、一体どのような患者が自死の対象になるのだろうか、制限はあるのか、ないのか。ディグニタスのサイトにはそうした知識面に関する項目もあるので、次回に紹介したい。

安楽死に対するタブーは道徳的パターナリズムか

前回のブログにも書いた、年末の安楽死の映像についてだが、インターネットで調べるとその映像は“ディグニタス”という団体の協力のもとに撮影されたものらしい。“ディグニタス”という団体はどのような団体なのだろうか。ディグニタスHPの説明欄の英訳である。

http://www.dignitas.ch/index.php?option=com_content&view=article&id=4&Itemid=44&lang=en

 

“尊厳を持って生き、尊厳を持って死ぬためのディグニタス” はスイスの法律に基づく団体で、1998年5月17日にForch(チューリッヒ近郊)で設立されました。商業的利益を何ら追求しない組織は、そのメンバーに尊厳のある生命と死を保証し、他の人々がこれらの価値から恩恵を受けることを可能にするという目的をその構成に準拠してます。DIGNITASの活動には、次のものが含まれます
・すべての終末問題に関するカウンセリング
・医師、診療所、その他の団体との協力
・医師および診療所に関する患者の指示と患者の権利の遂行
・自殺と自殺未遂を防ぐこと
養護老人ホームの管理、患者が選択していない医師、安楽死の権限をめぐる紛争における支援
・「最期の問題」についての問いを見つめることに関するさらなる法的な発展
・死に至る患者の同伴と、自己決定的な最期のアシスタント。
2005年9月26日、「Dignitas - ドイツのセクション」がハノーファーで設立されました。この団体はディグニタスの目的のためにドイツの人々の協力を通じて設立されたものです、
今日、これらの2つの協会は69カ国の7100人を数えます。両協会は世界権利連合連盟(WFRtDS)と欧州連合(EU)連合(EU)の加盟国です。
ディグニタスは日々、タブーにすることなく、自身の最期を見つめることに対しての真摯なカウンセリングを求める世界中の人々と接触しています。社内外のパートタイム労働者約20名が会員の人々や、さらなる人のニーズのために活動しています。

 

 この団体が1998年設立されたということは、20年前からこの組織はあるということだ。この団体紹介のページで気になったことは、“タブーにすることなく“という部分だ。実はこの部分が英語だと”パターナリズム的、父権的“という言葉も付け加えてある。この団体は安楽死をタブーにすることは、ある種の道徳的パターナリズムということなのだろうか。

 その点を考慮すると、安楽死の議論が遅れている日本は意識的であれ、無意識的であれ、この道徳的パターナリズムと向き合っていない、ということができるかもしれない。

 

 

死と安楽の間で

 年末だろうか、ビートたけしテレビタックルという番組で、安楽死のテーマを取り扱っているのを観た。衝撃だったのは、ある外国人の女性が安楽死の薬を飲む映像が流れていたことだった。

 

  友人であろう付添人の「あなたは死にたいの?」という問いに足して、「ええ、私は死にたいわ」と答える女性。その後、彼女は死ぬための薬を飲み、数分で眠気のために目を閉じ、亡くなった。付添人の友人は涙ながらに、彼女がまぶたを閉じた後もしばらく祈りを捧げていた。

 

  さらに驚いたのは、この番組を観ていた両親が自分たちも安楽死をしたい、と言ったことだった。家族の迷惑になるくらいなら早く死にたい、そう両親は言った。

 

 私はこのとき、なんと言っていいのかわからなかった。自分が面倒を見るから長生きしてね、そう言えば良かったかもしれない。ただ僕はその時、なんていいのか分からず、黙ってしまった。「介護」という重い二文字が頭をよぎったからだ。

 

 その日以来、私はずっと安楽死あるいは、そう遠くない将来、安楽死の自由化が進むであろう社会をどう考えたらいいのか考えている。今後、本当に両親は安楽死を選択するかもしれない、両親が安楽死することに自分も準備しなくてはいけなくなるのかもしれない。安楽死という選択肢が私たちの “生きている時間” に影響を与える以上、安楽死に対する葛藤や苦悩を避けることはもはやできないだろう。

 

 素直に言えば、両親がもしできるのであれば安楽死したい、と言ったとき最も ”安心“ したのは私かもしれない。一方で、私を育ててくれた両親に対してそう思ってしまったことが許せない。このアンビバレントな思いとどのように向き合っていけばいいのか。

このブログは死と安楽の間にあるそうした葛藤の過程であり、ひいては私自身の死に向けてのささやかな準備作業である。